{ 解説 }

市が立つところ
井上貴詞(井上貴詞建築設計事務所代表/市プロジェクト什器設計)

山形市はかつて東日本有数の商都であり、七日町・十日町など定期的に市が立った「市日」の名の町が中心街の屋台骨となっている。最上義光公の時代から毎年1月10日には市神祭りとして初市が、5月には薬師祭・植木市がおこなわれるなど、400年近くつづく伝統的な「市」が今なお暮らしに根付く「市の街」といえる。

「市」の起源を辿ると「市庭(いちば)」という、古来より「交換」がおこなわれた場所が浮かび上がる。言葉の読みからいえば、「イチ」とは「一・逸」にも通づる特にすぐれたものという性質と、ケガレを祓い清める「斎(いつ)く」という聖なる場としての意味合いを持ち合わせる。一方の「ニワ」とは、皆があつまって作業するところを指す。つまり「市=市庭」とは、人が自由に集う場であり、ある種の結界、聖なる場であった。
今回「市」の空間を考える手がかりとして、私は3つの要素を提示した。組立・解体・移動が比較的容易で、その時その場所にのみ出現する「仮設性」。境目となる柱を立てる・屋根をかけるなどのシンプルな行為ひとつでそこに関係性を生み出す「結界」。自らが組み立て、しつらえることで個性的な場所を生み出す「人の手」。これらによって、街中のそれぞれの場所性に沿った市の空間を出現させようと考えた。

「山姥市」が立てられた文翔館[注1]は、明治以来の旧県庁舎があった場所だが、それ以前は城下の外れの万日河原と呼ばれ、荒れ地と寺社が広がっていた。流域には罪人の処刑場があったという話も残り、江戸時代初めまで遡ると流路を変更される前の馬見ヶ崎川が流れていた。「本の市」が立てられた遊学館[注2]も同じような立地である。中世、町の原型ともいえる市が立ち現れた場所が河原だったことを考えれば、市の原初を辿る場としてはまさに格好の地といえる。
「山姥市」では、かつて中世の市でみられた柱と屋根だけの簡易な小屋や、近年まで山形の初市や植木市でみられた、自然素材の屋台のような原初的なイメージを思い描いた。硬質なレンガ造石貼りの文翔館建物の前庭広場で、対照的に別の風景を出現させる「異界」のような装置として。具体的には、主な素材は竹材とし、かつて山形の竹工芸を支えていた地元の竹材店の協力を得て、材料の調達や組み方の指導を受けた。施工では、文翔館の庭の造園職人チームを中心に、アトツギ編集室も自らの手で組み上げた。

もう一方の、「芸術界隈」と「ふうどの市」が立てられた御殿堰は、先述の約400年前の馬見ヶ崎川の流路変更に伴い生まれた生活・農業用水路で城濠に流れ込んでおり、流域の寺町界隈では各境内の参道に直行するように流れ、「結界」として機能している。戦後その流路沿いに闇市があった名残を現在の飲み屋街に見ることもできる。
「芸術界隈」では、芝生広場に散らばるように置かれた大小様々なブースが群となり、ひとつの環境をつくり出すものを考えた。ひとつひとつの什器は、片方が閉じられ片方が開かれ、ホワイトキューブを斜めに切って割ったような、さながら美術品を守る鞘堂や祠、厨子のようなイメージである。構造用合板を主材料に、3種類の大きさを地元の家具職人とともにつくりあげた。この什器はそのまま「本の市」に移築され、大型の本を開いたような形状は、遊学館ロビーを「本の森」へと変える装置となった。
「ふうどの市」でメインとなる什器は、かつて市が開かれた町場と集落を、物資を積んで行き来していた大八車をイメージし、全面に木を用いながらも簡素な造りで、日によって変わるゲスト農家の作物や商品がより栄えるように考えた。什器の側面に収められた引き出し収納は、そのまま商品を陳列する木箱となる。フライヤーや小物を展示できる小型の棚も内部に格納することができる。

これらの市の什器は、そこに人が介在し行為が発生してはじめて市の空間として機能する。自然と人のあいだで、「市」は私たちの前に虹のように立ち上がってくる。

[注1]文翔館
旧県庁舎・県会議事堂であり、大正5年に建てられた英国近世復興様式のレンガ造りの建物。大正初期の洋風建築を代表する貴重な遺構として、昭和59年に国の重要文化財に指定。昭和61年から10年の歳月をかけて保存修復工事が行われ、現在は、山形県郷土館「文翔館」として一般に無料公開され、コンサートや演劇公演、展覧会、地域イベントなど、様々な文化活動の場としても開放されている。今年で創建100年目を迎える。「市プロジェクト」と同時開催された「山形ビエンナーレ2016」のメイン会場の1つになった。(山形県山形市旅篭町3-4-51)
[注2]遊学館
知事公舎跡地に建てられ、山形県生涯学習センターと山形県男女共同参画センター、山形県立図書館の3施設を複合した山形市の中心部にある生涯学習施設。(山形県山形市緑町1-2-36)